明けましておめでとうございます。
今年も佳孟をよろしくお願いします。
今年の佳孟の一年は、学びに満ち溢れ、向上心の高い一年になったような気がします。
今年、大きく飛躍したなと自分で思う事は二つあります
・頭の中で浮かんだ不安や悩みを、ある程度自分の頭でコントロールできるようになったこと。
・ちょっといらないくらいのポジティブシンキングができるようになったこと。
2026年も少しずつ、自分をみがいていけたらいいなと思います。
では、皆さん、よいお年を。
このコンサートで体感したのは、ファンキーなビートはハートにダイレクトに響くものなんだという事ですね。
胸のあたりに、ものすごい振動を感じたんです。多分、ベースの音が大きかったんだと思うんですが。
久保田利伸さんのファンキーでグルーヴィーな歌声はもちろんのこと、コーラスの方々や、音楽を演奏してくれたバックバンドも見事に久保田さんの歌を盛り上げてくれました。一番凄かったのはドラムを演奏していた方。ものすごいドラムテクニックだったんですよね。
二度目だけと最高のショーでした。
特別なことをするために特別なことをするのではない、特別なことをするために普段どおりの当たり前のことをする。
- イチロー -
今日はクリスマスイブ。以前もクリスマスイブに掲載しましたが、クリスマスは日常の大切さを知るための特別な日と言ったような気がします。
そんな時、今年になって野球選手のイチローの名言を調べ廻ってたのですが、クリスマスだからこそ知っておきたいぴったりの名言が上の言葉です。
たいていの人はクリスマスやら特別なお祝いではしゃぐと、その翌日にモチベーションを崩してしまう人が結構いると思うんですよね。
その対処法として僕が提案するのがこのイチロー選手の言葉。
要するに、特別な日にパーティをするのはいいんですが、その際にいかにして普段の気持ちを保てるかどうかによって、その翌日にモチベーションを維持できるかが決まってくるんだと思うんです。
いつも通りにしていれば、特別な日とその後の気持ちのギャップが小さくなる。つまりそれだけ気持ちを平然としていられることが出来るんだと思うんですよね。
イチロー選手はとにかく日常のルーティンを大切にしていたからこそ、コツコツと記録を積み上げることが出来たんだと思うんですよね。そのために「いつも通りの気持ち」を心がけているんでしょう。
クリスマスを祝う、けど、平凡さも忘れないことが大切なんだとイチロー選手の言葉で学びました。
以前、コミュニケーションのトレーニングになるゲームとして、トレーディングカードゲームを紹介しましたが、それと同等、もしくはそれ以上にコミュニケーションのトレーニングになるゲームがあることに気が付きました。
それが、「テーブルトークRPG(TRPG)」というテーブルゲームです。
RPG、要するにロールプレイングゲームというと日本ではドラゴンクエストやファイナルファンタジー、ポケットモンスターといったビデオゲームのほうが有名ですが、元々はコンピューターゲームが普及する前はRPGというとこのテーブルトークRPGのことをさしていたんです。
大雑把にTRPGについて説明すると、まずゲームのルールを示したルールブックに基づきゲームマスターという物語を進める役割をする人とプレーヤーというキャラクターを演じる数人の参加者が一緒になってルールにのっとった物語を作るというもの。
テーブルトークというだけに重要なのはプレーヤー同士の会話だったりゲームマスターの語りだったりするほかに、物語を決定づけるのにサイコロを使用する運だめし的な要素も盛り込まれているんですね。
近年日本でもこのテーブルトークRPGの魅力が再発見されるようになっているそうです。
僕はこのテーブルトークRPGで思ったんです。これこそが本来のゲーム(遊戯)という存在意義だということを。
ファミコンあたりからコンピューターゲームでも二人もしくは複数人で遊べるゲームはあるんですが、近年はオンラインを使用したゲームによって、ゲームは部屋に閉じこもって遊ぶことが多くなったような気がするんです。
僕みたいに発達障害を持つ人にとってコミュニケーションのトレーニングは避けて通れないものだと思うんです。だからこそ、ゲームとして楽しめるトレーニングにこのテーブルトークRPGは最高のコミュニケーションの練習になると思ったんです。
僕は小学生高学年くらいから漫画家になりたいと思ってました。
そんでもって漫画家になるにはどうしたらいいのか調べたり、中学校で美術部にいた頃は漫画のノウハウを紹介した参考本などを読み漁ってました。それで短大で美術とデザインを専攻していた頃の後期あたりに実際に10ページ程度の読み切り漫画を制作して、漫画を作る過程を学びました。
その一連の学びを通して、漫画について分かったことがあります。
「漫画に必要なのは、絵の上手い下手ではなく、シナリオやストーリーでいかに読者を引き付けるか。」
これが漫画の基本だという事がわかったんです。
漫画家という仕事はとにかくシビアな世界です。漫画には読者がわからないくらい沢山の山が立ちはだかっています。
まず、漫画を連載するうえで一番大切なストーリーの流れを文章でまとめた「プロット」というメモからはじまり、そこからコマの割り振りやキャラクターの配置、セリフなど大まかなイメージを示した「ネーム」を作り、それを編集者と呼ばれる出版社の社員が閲覧したうえで漫画の構成の変更やレイアウトの修正などを漫画家に指示し、こういったやり取りが繰り返し行われ、編集者がその工程を経てOKのサインを出してやっと漫画家は連載できるいわゆる「原稿」の制作に取り掛かるのです。
もうひとつ、漫画家がシビアな業界といわれる理由の一つに「読者からの人気というジャッジ」があります。漫画雑誌には読者アンケートというものがあり、そのアンケートの数で漫画の人気を出版社が把握します。人気のある漫画はいいんですが、アンケート投票が少ないと人気がない漫画と判断され、結果、連載途中でもいわゆる「打ち切り」という終わり方をしてしまう漫画は沢山あります。
打ち切り終了とは逆のパターンもあります。漫画家は「この辺で完結させよう。」と思っていたけど、人気がありすぎて編集者から「続けてくれ」と連載継続を頼まれることもあります。
連載継続となると問題になってくるのは「設定の後付け」というものがあります。漫画家が考えていたストーリーの設定では連載継続は難しく、いつ完結あるいは打ち切りになるかわからない状況になり、苦肉の策で元々考えていた設定に新しく設定を付け加えるという方法をとらざるを得ない状況になるのが人気漫画のセオリーみたいなものです。
漫画業界においても最もシビアな業界である集英社の週刊少年ジャンプの漫画では特に、この「設定の後付け」が著しいのですが、ストーリーの進め方の上手い漫画家はうまく後付けを隠してストーリーを展開させています。その例を二つ挙げると一つは「北斗の拳」。北斗の拳は北斗神拳を使うケンシロウがそれと対を成す南斗聖拳の使い手であるシンを倒して恋人であるユリアが自ら命を絶っていたというあたりで完結するはずだったそうですが、人気ゆえにそれからも連載継続することになり、ケンシロウに兄弟がいたり、南斗聖拳の使い手が複数いたり、そして死んでいたはずの恋人のユリアが実は生きていたという、よーく読んでみると後付けっぽいストーリーの展開があるのがわかります。
もう一つはジャンプ至上、いや、すべての漫画業界においても大人気の漫画「ONE PIECE」でしょう。どうやらこの漫画は単行本10巻くらいで完結する予定だったそうですが、人気がありすぎて現在はなんと単行本100巻以上もストーリーが続いているという快挙を成し遂げている漫画です。元々、この漫画は作者が伏線を沢山用意しているので、ある程度設定を後付けしても見事につじつまを合わせているのが人気が続いている理由でしょう。
でも、僕があえてこの2作品とは別に「これはこれで見事だ」と思う漫画が北斗の拳と同時期くらいにジャンプで連載されていた漫画「魁‼男塾(さきがけ!!おとこじゅく)」なんですね。なにが見事かって言うと「これ本当に編集者がOK出したのかな?」って思うくらいストーリーの進め方がめっちゃくちゃなんです。
その代表的な例として、主人公の「剣 桃太郎(つるぎ・ももたろう。通称:桃)」の先輩にあたる「大豪院 邪鬼(だいごういん・じゃき)」というキャラクター。
まずこの邪鬼の初登場シーンなんですが、明らかに人間じゃないとんでもなく巨大な大きさで登場するんですが、桃が邪鬼と対決するストーリーになると、何故か普通の人間サイズになっているんですよね。この変化に対して作者はどう説明づけたかというと「恐怖心や畏怖によってオーラででかく見えていた」という強引すぎる設定というか、その場しのぎの言い訳のような説明で釈明したんです。
さらに、この邪鬼はサイズだけでなく生きているのか死んでいるのかストーリーが進むにつれてハッキリしないんですよね。
僕が知っている限りだと、邪鬼は敵との戦いで死を悟って敵を倒した後に、自分の必殺技を自分に食らわせて骨も残らず消滅したんですが、ジャンプと同じ集英社のプレイボーイに連載された同じ作者が描いた「天(そら)より高く」という漫画で、男塾の登場人物のその後の姿が描かれているんですが、その中になぜか消滅したはずの邪鬼が普通に登場するんです。でも、その後にスーパージャンプで連載された男塾の続編漫画「暁‼男塾(あかつき!!おとこじゅく)」では、邪鬼の息子が登場した際に死んでいるという設定に戻ってたんです。更に進んで日本文芸社の漫画ゴラクに連載された「私立極道高校(しりつきわめみちこうこう)2011」では何の説明もなく生きているだけでなく、初登場と同じ怪獣サイズの巨人で登場したんですね。
僕は漫画家という夢を捨てて(とはいうもののイラストは描いている)普通の仕事を選び、漫画は殆ど読まなくなったんですが、この男塾シリーズとこの作者の作品は普通に好きです。理由は一つ。自由すぎるから。
そもそもの話、この出来事以前から、アニメや漫画といったメディアを規制したがる人は昔から存在していたのも事実。
その代表的な一例として挙げられるのが、僕が子供の頃大好きだったアニメ「クレヨンしんちゃん」だろう。このアニメは放送が開始してからそのあまりにもお下劣な内容が原因でPTAや保護者からクレームが殺到し、ある番組が調査していた「子供に見せたくないアニメランキング」の上位にいつもランクインしていた。
ご存じかもしれないが、元々クレヨンしんちゃんのアニメの原作となった漫画は子供ではなく、大人向けに連載されていた漫画であり、これを子供がTVを見る時間帯にある程度改変はしたものの、原作をそのまんまアニメで放送できるような内容ではないのである。
こうしたアニメや漫画の表現を規制したがる人がそうしたい理由にあるのは、おそらく大半が「そういう表現を見てそれに影響されて非行や犯罪に結びつく恐れがある」という危機感だろう。その危機感のきっかけと言える事件が殺人犯の宮崎元死刑囚がアニメ好きだというニュースが報じられたことだろう。
僕が思うに、表現規制をしたがる人の言うようにそれが原因で犯罪が起こるというのは残念ながら事実である、けども僕は場合によってはそういう表現が必要となる場合もあるという事もあると思うんです。
僕が下品な表現も必要だと思った理由は二つあります。
一つ目は、俳優の栗原類さんのアメリカでの小学生時代のエピソードから。ある記事のインタビューで栗原さんはアメリカに滞在していた頃、自身の発達障害の特性で冗談が通用しないために同級生と何度かトラブルになっていたと話しています。それで当時の栗原さんの担任の先生が危惧して栗原さんのお母さんと一緒に相談したところ、その担任の先生は、「もっとお下品なお笑い番組を見てください。」と助言したそうです。そして友人のすすめで「サウスパーク」というアメリカでは結構有名な割と過激なジョーク満載のコメディアニメを見るようになったそうです。それがきっかけで、栗原さんはコメディ俳優を目指すようになり、今の俳優業に至っているそうです。
二つ目は、僕の実体験です。今年の夏の初め頃、僕は理由は分かりませんが精神的に弱っていて仕事も欠勤するほど弱っていました。しかし、前から気になっていたアメリカ製の大人向けアニメ「ヘルヴァボス」というアニメがYouTubeで公式に公開されているので、興味本位で鑑賞してみたところ、嘘みたいに弱っていた精神状態が回復し、このアニメを見た翌日には元気に職場復帰できるほどになりました。「ヘルヴァボス」というアニメはアマゾンプライムで配信しているアニメ「ハズビンホテルへようこそ」のいわば外伝的なアニメで、ハズビンホテルもヘルヴァボスもグロテスクな表現とアダルトな表現満載のインモラルなアニメなんですが、中にあるミュージカルのクオリティが非常に高いんですね。日本でもこの2作品は熱烈なファンがいるほど人気な作品です。余談ですが、以前鈴木雅之さんのコンサートに行った記事で「アニメのカップリングで尊いと感じた」と書きましたが、これはそのヘルヴァボスの主人公ブリッツとその恋人(?)のストラスの恋人関係のことを言っていたんですね。
僕は、こういったお下品な表現のあるアニメや漫画は別にあってもいいとは思うんですが。規制したがる方もそれを少しでも理解してくれるために重要なことがあるとするなら、「こういう表現を見てもいいが、現実での道徳や倫理観だけは捨ててはならない」ということです。僕も一時期現実と空想の区別ができない時期がありましたが、何度か訓練するうちにそれができるようになりました。アニメや漫画は現実ではなく作り話、現実は道徳と倫理観を持って生きる。そうすれば、こういう表現で間違ったことをする人は少なくなる、と思います。
前の記事をおさらいすると、僕はどっちかっていうとルーティーンを好む傾向ゆえに、描くイラストがほとんど似たような構図になりがちになっているということ。
確かに、今までの作品を振り返ってみると、マンネリしているのは描いた本人である僕でもわかるくらいだと十分承知しています。
でも、Pixivを始めたばかりの頃、さらに遡ってPixivより前に自分のホームページにイラストを掲載していた頃、それから今を比較してみると、だいぶ変化はしていると思うんですよね。
本格的に創作活動をはじめて10年以上が経過していると思いますが、あの頃と今では創作活動をする意味がどこかでガラッと変わったような気がするんです。
最初は他の創作者さんと交流することが主な目的だったんですが、次第にネット上での人間関係に曇りがさすようになり、現在はそういった交流ややり取りは殆どなくなりました。
そもそもの話、去年、更に一昨年と比べてもだいぶ絵のスタイルは変化してます。
最初のうちは普通の人間を描いていたんですが、今はモンスターやクリーチャーを主に描くようになりました。
「似たような絵を描く」と思われるのは多分、絵を描いて次の作品を描く間隔が比較的短いのが原因だと思われます。僕が思うに自分はあんまり考えずに思うがまま描くクセがついちゃってるみたいです。もうちょっと考える時間を持てば、バラエティに富んだ絵がかけるかもしれません。
ルーティーンを好む人は積み重ねることで結果が出ることを信じて努力する人で、
ルーティーンを嫌う人は人生や社会を多様に、そして豊かにするために考え、努力する人である。
以前の記事でイチロー選手について考察しましたが、今回はその中で紹介したルーティーンというものについて、もうちょっと深く考えてみようと思います。
まず、イチロー選手はとにかくルーティーンにこだわる人であることは割と有名な話で、
毎日カレーを食べる等があります。
このルーティーンというこだわりや習慣は、発達障害とよく関連しているらしく発達障害を持つ人の大半は何かしらのルーティーンを好む傾向にあるそうです。
僕も自閉症スペクトラム障害、あるいはアスペルガー症候群という発達障害を持っているためか、割とルーティーンにこだわるようで、例えば仕事前には必ずコーヒーを飲むようにしてます。
また、このルーティーンを好む性格が原因か、趣味のイラストを描く時でも、若干の違いはあるものの、一見してほとんど似たような構図になってしまいがちなようで、何度か閲覧した方からのコメントで「似たような絵ばかり」というコメントをいただいたことがります。
でも、今の仕事においてこのルーティーンを好む性格はかなり強みになっていると思うんですよね。
今の仕事は特に例外がない限り毎日ほとんど同じことの繰り返しですが、 これをルーティーンという習慣にしているため、これといって辛いと思うことはあまりありません。むしろ、仕事している間は仕事に集中できるため、余計な考えが出なくて精神的に落ち着くんですよね。
当然ながら、僕みたいにルーティーンを好む人もいれば、ルーティーンを嫌がる人もいます。でも、そっちのほうが普通なのは理解しています。
でも、ルーティーンを好む人も、そうでない人も、努力はその人なりにしている人だと思うんですよね。ルーティーンを好む人は積み重ねて結果を出す人で、そうでない人はバラエティに富んだ考え方 で世の中や自分の人生を鮮やかにすることをいつも考えていることをちゃんと努力していると思うんですよね。
ルーティーンというのは、人によってその存在意義が変わるものなんでしょうね。
一万種類の蹴りを一回ずつ練習した者は怖くない。
私が怖いのは、 一種類の蹴りを一万回練習した者だ。
_ブルース・リー
幸運の女神、lady luckなんでものがありますが、本当にそんな存在なんているんでしょうか?
僕は、いると信じています。というか、知らぬうちに出会っていた可能性があったと思っています。
そう、それは僕が今の職場で働くことになった最初の頃。
僕に任された仕事は事務所や工場内の清掃や、トレーの洗浄といった雑用みたいな仕事。
その時、僕にその仕事のやり方を教えてくれたのが、多分だけど僕よりも明らかに年上の女の人だった。歳上なんだけど、老婆というほど年齢は高くはなかったはず。
彼女はとにかく喋り方も教え方もとてもやさしく、僕は彼女のお陰ですぐに仕事をこなすことができたんです。
少しばかり、僕は彼女が愛おしく感じることもありました。
しかし、時が経ち、彼女は年齢の理由もあってか退職することになったんです。
そのとき、 ぼくは、何だかさみしい気持ちになったんです。でも、その時こんなことを思いついたんです。
「自分を親切にしてくれる人を大切にするんだ。でもどんなに大切にしてもいつかは別れなきゃいけない時が来る。その時は、『さよなら』じゃなくて『ありがとう』って言える別れ方にしよう。」
彼女が退職して今はしばらく時間が立ちましたが、僕はあの時よりも少し仕事がうまくできるようになったような気がするんですよね。
僕はこう思っています、あの人こそが僕にとっての女神様だったんだって。
女神様は神々しくてすぐに分かるような外見をしていません。より身近で最初のうちは気づかないものだけど、時間が立つにつれて何かのきっかけで女神様だとわかる時が来る。僕はそうだと信じています。
昨日の土曜日に、広島で開催されたラブソングの帝王マーチンこと鈴木雅之さんのコンサートを観に行きました。
非常に素敵な体験になりました。
いや実を言うとね、このコンサートの前にちょうどネットで某人気アメリカ製Webアニメのキャラクター同士のカップリングを見て、初めてアニメで尊いという気持ちに胸ときめいたんですよね。そしてその絶妙なタイミングでラブソングの帝王のコンサートって、まるでこれは運命としか思えないんですよね。
電車とバスで会場とホテルに到着するまでずっとそのカップリングのことばかり考えてました。そのせいか電車とバスの窓から見える景色がなんだかとてもロマンチックに思えたんですよ。
もちろんコンサート中はテンションばくあげでした。知ってる曲でも初めて聞く曲でもマーチンの美しいダンディーな歌声にただ魅了されるばかりでした。
最高のひとときを堪能いたしました。
佳孟は今日で34歳の誕生日をむかえました。
本来ならここは祝うところですが、今回はあえて僕が直面するであろうある問題について話そうと思います。
僕が直面するであろう問題、それは「4070問題」というもの。
簡単に説明すると、40代になる子供の世話を70代になる親が面倒を見るという問題。
場合によっては「5080問題」とも呼ばれています。
僕みたいに発達障害が理由でこの問題を抱えている家庭もあるそうです。
初めて僕がこの問題を知った時、「これは他人事ではないな。」と痛感いたしました。
ただ、誤解しないでほしいんですが、僕は完全に親に頼りっぱなしではないということは確かです。
一応、ちゃんとした仕事も今のところそつなく出来ているし、 短大に二年いた頃はアパート借りて一人暮らしもしていました。最近では収入が減った親のために家賃として一万円くらい払うこともしています。いつでも自立できる準備は出来ている状態です。
ひとつ、心配なのが「お金の問題」なんですね。働いてはいるんですが、現在の収入では一人暮らしはちょっとむずかしい、と思うのが問題なんだと思ます。
佳孟が40歳になるまであと6年。それまでにこの4070問題を解決しなくてはなりません。そう痛感いたしました。
ここ最近、僕はビデオゲームやスマホゲームやらで遊ぶことは殆どなくなった。
理由はわからないが、ゲームよりも絵を描くほうが楽しくなったからだと思う。
そんな僕がゲームという遊戯について最近思っていることを書きたいと思います。
ここ近年のゲームの特徴として「ネットワーク通信」に対応、もしくは必須事項であることだろう。インターネットを通じて遊ぶゲームは昔からあったが今ほど人気にはならなかった。
それまで一つのゲーム機で複数人が同時にプレイするためにはプレイする者同士が同じ場所にいなくてはならないが、インターネットを利用すれば遠く離れた者同士で複数プレイが可能というメリットがある。
ネットワークをゲームに使うことはそういった利点もあるが、こういうものには大抵の場合、問題点もある。
最近のニュースで取り上げられたのを見たのだが、オンラインゲームを通じて知り合った学生が事件に巻き込まれるというニュースが報道された。他にも何回かスマホゲームのやり取りで詐欺犯罪をさせられるために海外に誘拐されるという事件もあった。
こういったゲーム自体を否定しているわけではない、そもそも問題はゲームではなくこういった事件を起こす人間に問題があるだけでオンラインゲームやスマホゲームに罪はない。
しかしですよ、どうやら最近の学校ではプログラミングという授業があるそうです。
ビデオゲームがこれだけ問題になりながら、ゲームには必須のプログラミングを学ばせるというのはどういうことなのか。いや、ゲーム以外にもプログラミングが重要なものはあるはずです。多分そっちのためにプログラミングを学ぶんでしょう。
で、僕が思うのは、ゲームってのはみんなとコミュニケーションをとるためのものであるべきなんだと思うんです。
では、それができてなおかつ犯罪に利用されにくいゲームってなんなのか。
僕が思うに、それは卓上で遊ぶゲーム、いわゆるテーブルゲームだと思うんですよね。
テーブルゲームの中でも、一番楽しくて、なおかつ簡単に遊べるゲームはトレーディングカードゲームだと気づいたんです。
トレーディングカードゲームは1993年にアメリカで発売されたマジック:ザ・ギャザリングが最初と言われており、日本で有名なものを挙げると遊戯王、ポケモンカードゲーム、デュエル・マスターズの3つがあります。
テーブルゲームは比較的安価に遊べるものが多くビデオゲームとは違って対面方式で遊ぶものが多く、コミュニケーションを培うにはもってこいの遊びだと思うんですよね。
最近では100円ショップのダイソーでもトレーディングカードゲームが販売されているようで、気軽に手に取りやすいゲームだといえるでしょう。
最後に、僕がビデオゲーム、スマホゲーム、テーブルゲームなどのゲームすべてに関して願っていることは、できれば「ゲームを遊ぶ人ではなく、ゲームを創る人になってほしい。」ということです。特にビデオゲームを作ることは社会の理想的なあり方の縮図のようなものだと思ってるんです。ビデオゲーム制作には様々な役割を持った人が制作に携わってます。プログラマーはもちろんグラフィックデザイナー、サウンドクリエイターなど、その人が持っている才能をそれぞれが協力し合ってゲームは作られます。
学校では嫌煙されがちなゲームでも学べるものはある、僕はそう思っています。
_ウォルト・ディズニー
スポーツやゲームにおいて、勝ち負けはなくてはならないもの。
それぞれが勝利のために努力し、本番で出せるすべての力を出し切って勝利し、その喜びをオーディエンスと共に分かち合う。それはとてもいいことだと思います。
でも、勝敗を決めなくてもいいことに勝ち負けを決めてしまっている人もいるような気がします。
よく人生の勝ち組だとか負け組だとか言ってる人もいますが、それに僕は最近疑問を抱いています。
仮に、人生に勝敗があったとしても、それで負けていることが事実だったとしても、それって不幸なことかというと、決してそうとは限らないと言うことに気がついたんです。
この記事のタイトルのHappy loser(幸せな負け組)とはつい最近思いついた言葉です。
学歴が低くても、収入が少なくても、考え方次第で幸せに思えることはきっとあります。
いや、むしろ、敗北を経験してないと小さな幸せを見失ってしまいます。
勝たなくても、負けっぱなしでも、ほんのちょっとした幸せに、とても嬉しい気持ちが湧き上がってくるような心を持つべきなんだと思うんですよね。
発達障害の人に多く見られる症状の一つに、感覚過敏というものがある。
味覚、聴覚、視覚など、それらに対して強い刺激が苦手なことだ。
特に聴覚に関する刺激に弱い、苦手という発達障害者は結構いる。僕もその一人だ。
今でもそうだが、僕は人の怒ったような声や人が怒られている場面がとても苦手で、子供の頃はこれが原因でパニックを起こして暴れまわっていた。僕が学校が嫌いだった理由はこれだった。
タレントで発達障害を持つ栗原類さんはインタビューで子供の頃、音楽の授業が苦手だったという話をしている。 栗原さんは僕と同じく大きな音が苦手だそうで、音楽の授業でみんなが怒鳴るように歌う状況に耐えられず、教室を飛び出してしまうこともあったそうだ。
今僕が働いている工場では、常に機械の作動する騒音がするが、この騒音に対して僕はその音は苦手という感じではない。むしろ、この騒音のおかげて人の声がかき消されるので、機械の騒音が心地よく感じることもある。
発達障害の人の感覚過敏というのは非常に曖昧なもので、 苦手と思う状況とそうでない状況があることがあまり理解されていないような気がする。普通の人にはわからないこだわりみたいなものである。
発達障害に対して誤解されないためにも、発達障害者が具体的に「こういうのが苦手だけど、これは大丈夫。」と自分の特性を周りの人に説明することができれば、その人にとってベストな状況を維持できると思うんですよね。
今日はバレンタインデー。日本では好きな人にチョコレートを渡すというのが定着していますが、最近ではその考え方は古いようで、自分のためにチョコレートを買うという人もいるそうな。
でも、僕はここ近年このバレンタインデーについて疑問がずっとあるんですよね。
単刀直入にいいますが、「バレンタインデーで重要なのは、いかに良いチョコレートを手に入れるかではなく、どれだけ人を愛せるか。」ということをずっと思っているんですよね。
以前の記事でも愛について僕なりの考察を書きましたが、今回はもうちょっと愛について考えてみようと思います。
以前、僕はこの国は愛に飢えていると言いましたが、日本人はその割には恋人や恋愛というものにはやけに拘っているという曖昧な民族だなと思うんですよね。
前にも話しましたが、好きなものが同じだからといって仲良くなれるとは限らない、むしろ仲が悪くなる方が多いという結論から言うと、世界的に見ても多くの日本人が勘違いして人間関係がうまくいかないのは、仲良くなる基準を間違えているからだと思うんですよね。
僕がこれで思うのは日本人の大半は違いを受け入れる勇気が足りないのかな、ということです。
昔からお見合いというもののあれば、最近はスマートフォンのアプリでマッチングをして恋人を探すというものも現れていますが、いずれにしろ昔から日本は間違った愛の築き方をしているような気がするんですよね。 日本が島国なゆえに昔から閉鎖的な思考に陥りがちなのは仕方がないんでしょうね。
話はちょっと変わりますが、愛について深い思考を持っていた偉人は沢山います。
マザー・テレサ、キング牧師、そして社会心理学者のエーリッヒ・フロム。彼らの考える愛は若干の違いはあるものの、愛の本質を見抜いているという共通点があるんですよね。
話を戻すと、日本人は恋愛には興味があるが、本当の愛の本質を知らない人が多いということ。
「じゃああんたは愛の本質を知ってんのか?」と僕に対して疑問を持つ方もいるでしょう。
率直に申し上げますが、僕は知りません。しかし、僕が思うに、愛の本質なんて答えになるゴールは存在しないけど、それを追求することに意味があるということ。そう、愛に到達点なんてないんです。ずっと追いかけ続けるものなんです。僕は今の仕事で本当の愛の本質を学んでいる真っ最中です。学ぶことに最果てがないように、愛を追い求める先にゴールなんてないんです。
愛って大切だな。
僕には一つ悩みがある。
それは「脅迫的不安」 を患っていることだ。
具体的に説明すると、「家の鍵ちゃんと閉めたかな。」とか「エアコンの電源消したかな。」とか「家が火事になったらどうしよう。」とか色んな不安が次から次へと心に出てくることだ。
ある程度、「大丈夫だよ」と自分に言い聞かせることはできるのだが、たまに不安概念が苦しくて家族や周りの人を巻き込んでしまうことがあるのが、悩みなのである。
思い返してみると、これは最近あったっことではなく、子供の頃からそういった脅迫的不安が募ることはよくあったような気がします。
一番ひどいときは、不安が出まくってほぼ毎日病院に通っていたときもありました。
最近はある程度不安をコントロールすることはできるようになった気がします。
とにかく楽観的に、おおらかな気持ちを持つことが不安を克服する方法だと思って、その思いを忘れないようにしています。
「楽観的になりましょう。気分が良くなりますよ。」
「どうにかなるよ。絶対大丈夫。」
ふと思ったんですよね。コンビニで挽きたて淹れたてのコーヒー飲んでたら。
高いコーヒーはそれなりに美味しさを追求したコーヒーなので、缶やペットボトルに入っているコーヒーより格別にうまいということに気がついたこの頃。
でも、そういうコーヒーは高い。そのためには一生懸命社会のために働いて稼ぐ。
おいしいコーヒーが社会を明るくする可能性があるというかもしれないと思ったこの頃。
努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。
努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。
人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。
- イチロー -
つい最近アメリカの野球殿堂入りを成し遂げたイチロー選手。日米通算3000本安打という記録を持つ世界的にも有名な野球選手だ。
今回は、そんなイチロー選手の生き方や名言から色々と学んできたいと思います。
イチロー選手はこれまで様々な名言を残しており、その言葉は野球に限らず、あらゆる社会において重要な意味を宿しています。
まず、イチロー選手について有名な話があります。それはイチロー選手は毎日同じカレーを食べ続けているというもの。
それ以外にも野球で必要な道具にも強いこだわりがあったり、スタジアムに入る段取りまでこだわっているといわれています。
公表はしてませんが、このことからイチロー選手は発達障害なのではないかという考察が多く意見されてるそうです。
もし、発達障害じゃなくても、イチロー選手は野球を通じて努力することの意味を教えてくれる存在だと僕は思うんですよね。
僕の場合、ここ最近ほぼ毎日のペースで落書き程度の絵を描いてそれをXやPixiv、DeviantArtなどに投稿するというルーティンが出来上がっています。
そのせいか、比較的似たようなイラストを毎日投稿してしまい、一度ですがフォロワーさんに「似たような絵を毎日投稿するのはよくない」と指摘されて、「しまった!」と思ったことがあるんですよね。でも、それでもそのルーティンを壊すことが出来ず結局まだ似たようなイラストを描いている状態です。
「自分のしたことに人が評価を下す、それは自由ですけれども、それによって、自分が惑わされたくないのです。」
「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。
自分が納得した生き方をしたい。」
僕が絵を描く際にも意識しているのが上のイチロー選手の言葉です。
実際のところ、僕の投稿したイラストに評価が下されることはほとんどないのですが、仮にそうだったとしても、それは気にせず、自分の描きたいものを描く、ということはある程度意識してます。
「同じ練習をしていても、何を感じながらやっているかで、ぜんぜん結果は違ってくるわけです。」
「考える労力を惜しむと、前に進むことを止めてしまうことになります。」
イチロー選手は稀代の努力家だといえます。しかし、彼は努力ともうひとつ必要なものを知っていたんだと思うんですよ。それが「考える力=想像力」だと思うんです。
努力することは大切ですが、なにを意識して努力するかでその努力による夢が実現する。ということをイチロー選手は伝えたかったんだと思います。
以下の考察を簡単にまとめると、
・努力するためにはルーティンを持つこと。
・他人の評価ではなく、自分が納得する結果を目指すこと。
・努力には想像力が必要だということ。
イチロー選手が野球を通してみんなに伝えたかったことはこういうことなんじゃないのかな、と思いました。