2025年11月9日日曜日

【すごいぞ男塾!】僕が男塾を知ったきっかけと宮下あきら先生について

  僕がこの魁!!男塾という漫画と運命的な出会いをしたきっかけは、今でもよく覚えています。


 最初にこの作品の存在を知ったのは、僕が小学生の頃。近所の同級生の家に遊びに行ったのがきっかけでした。同級生の家でいろんな遊びをしている中で、ふと、その家にあったゲームボーイの男塾を題材にしたゲームを見つけて遊んだことが、男塾を知ったきっかけでした。


 それから、この男塾という漫画が気になって、コンビニで偶然、いわゆるコンビニコミックに連載されていた「魁!!男塾」を見つけて購入して読んでみたところ、見事にはまってしまいました。それから男塾のコンビニコミックや文庫本、古本で売られていた単行本などを購入して読んでいました。

 それから、スーパージャンプで連載されていた魁!!の続編で主人公の桃の息子が主人公の続編「暁(あかつき)!!男塾」の単行本を全巻揃えて読破しました。



 ここからは、この男塾の作者である宮下あきら先生について大まかに説明します。

 宮下あきら先生は最初は犬が主人公の漫画で有名な高橋よしひろ先生のアシスタントをしていたそうです。

 そして、講談社の週刊少年マガジンで短編漫画の「少年勝負師ケン」が掲載されて漫画デビューをはたします。

 それから集英社の週刊少年ジャンプで初の連載漫画となる「私立極道高校(しりつきわめみちこうこう)」が連載開始になりました。この連載は順調にいってたんですが、アシスタントの不祥事で打ち切りになっただけでなく、問題となった回が掲載されているジャンプの雑誌が回収されるまでの騒ぎになってしまったそうです。

 それから、紆余曲折あって、この極道高校の実質続編ともいえる「激!!極虎一家」という漫画が連載スタートしたんですね。


 そして、いわゆるジャンプ黄金期に「魁!!男塾」が連載スタートし、宮下あきら先生はこの輝かしいジャンプの時代を彩った一員として活躍したんです。


 宮下あきら先生は噂によると漫画家が一番力を入れるべき「ネーム(漫画のレイアウトのようなもの)」を一切描かずにいきなりコマを割っているというそうです。ドラゴンボールで有名な鳥山明先生もそうだったそうですが、宮下あきら先生の場合、そのせいかストーリーに若干の無理が生じているけどそんなもん気にすんなと言わんばかりに豪快に漫画を進めているのがすごいところ。

 僕が思うのは、宮下あきら先生は自分の直感を信じて行動するタイプの人間なんだなと思うんですよね。ネームを描かない以外に、参考資料などは殆ど調べないそうです。漢だ。

2025年11月7日金曜日

【すごいぞ男塾!】漫画・男塾シリーズを僕なりに語る

  以前の「サイコロと占いについて」の記事と「漫画の後付け設定」の記事でちょっとだけ紹介した「魁!!男塾(さきがけ!!おとこじゅく)」という週刊少年ジャンプでかつて連載されていた漫画なんですが、この漫画にはまだまだ書ききれないくらい魅力的(?)な要素が沢山詰まっているので、当時のジャンプを知らない令和世代のジャンプ読者などの方々にその魅力をしってもらいたいと思い、男塾について語るシリーズ記事を書くことにしました。


 まず、初めにこの漫画をざっくり説明すると、

日本のどこかにある、時代外れすぎる軍国主義に染まった旧・大日本帝国の思想で、落ちこぼれ達に地獄のようなしごきを加えて真の男に育て上げる学校のような何かのようなよくわからない通称「男塾」で繰り広げられるドタバタを描いたギャグマンガ…というのは連載が始まった頃の内容で、連載が進むにつれて次第に個性的なキャラクターがそれぞれの能力や技で戦いあうバトル漫画にシフトしていき、結果バトル漫画になった作品です。

 当初ギャグマンガだったが後にバトル漫画にシフトする現象は男塾だけでなく「キン肉マン」や「ジャングルの王者ターちゃん」といった他のジャンプ漫画にもあった現象で、ドラゴンボールや幽遊白書といったバトル漫画が人気があったことからそうなったと思われます。

 で、この男塾の連載第一話の内容を紹介すると、まず最初に描かれるのは旧日本軍の訓練の様子と見せかけて、男塾で行われている時代外れのしごきだという事が教育委員会みたいな組織に取り上げられて男塾に抗議することになったことから始まります。

 この第一話はちゃんと漫画のコンセプトにのっとられており、例えば生徒の一人である「松尾」がトイレでマイケルジャクソンのスリラーを歌って教官である「鬼ヒゲ」にボッコボコにされるという場面があるなど、男塾がどういう場所なのかがよくわかります。

 そして後に漫画の礎ともいえる男塾塾長の「江田島平八(えだじまへいはち)」の決め台詞や男塾名物という多分、男を鍛えるための何か、そして口から泡を吹いて気絶するという男塾ではしょっちゅう見られるリアクションなど、この連載開始の一話でこの漫画の全てがわかります。

 このギャグ路線だった男塾のすごいところは、一般的にネガティブにとらわれがちな、軍国主義や偏った思想というものを、明るいユーモアとして表現しているところなんですよね。

 個人的な好みですが、僕はどっちかっていうとこういった旧大日本帝国の思想はあまり好きではないんですが、男塾だとすんなり抵抗なく入ってくるんですよね。

 その理由なんですが、男塾という漫画は日本の漫画というよりはむしろ、アメリカのブラックジョーク満載のコメディカートゥーンに似た世界観で描かれていることだと思うんですよね。漫画の絵柄はどっちかって言うとリアル調ですが。


 多分、この男塾の作者である「宮下あきら」先生はこの作品を通して、「男とはこうあるべき」ということを伝えたかったんだと思うんですが、僕がこの男塾を読んで学んだのは、「娯楽に理屈をつけるな。とにかく楽しめ。」ということと「表現の自由の可能性」の二つなんですよね。

 そんなわけで、これからその気になった時に、男塾シリーズの魅力についてもっと語っていこうと思います。

2025年11月2日日曜日

ストーリー漫画における後付け設定

 

僕は小学生高学年くらいから漫画家になりたいと思ってました。

そんでもって漫画家になるにはどうしたらいいのか調べたり、中学校で美術部にいた頃は漫画のノウハウを紹介した参考本などを読み漁ってました。それで短大で美術とデザインを専攻していた頃の後期あたりに実際に10ページ程度の読み切り漫画を制作して、漫画を作る過程を学びました。

 その一連の学びを通して、漫画について分かったことがあります。

「漫画に必要なのは、絵の上手い下手ではなく、シナリオやストーリーでいかに読者を引き付けるか。」

 これが漫画の基本だという事がわかったんです。

漫画家という仕事はとにかくシビアな世界です。漫画には読者がわからないくらい沢山の山が立ちはだかっています。

 まず、漫画を連載するうえで一番大切なストーリーの流れを文章でまとめた「プロット」というメモからはじまり、そこからコマの割り振りやキャラクターの配置、セリフなど大まかなイメージを示した「ネーム」を作り、それを編集者と呼ばれる出版社の社員が閲覧したうえで漫画の構成の変更やレイアウトの修正などを漫画家に指示し、こういったやり取りが繰り返し行われ、編集者がその工程を経てOKのサインを出してやっと漫画家は連載できるいわゆる「原稿」の制作に取り掛かるのです。

 もうひとつ、漫画家がシビアな業界といわれる理由の一つに「読者からの人気というジャッジ」があります。漫画雑誌には読者アンケートというものがあり、そのアンケートの数で漫画の人気を出版社が把握します。人気のある漫画はいいんですが、アンケート投票が少ないと人気がない漫画と判断され、結果、連載途中でもいわゆる「打ち切り」という終わり方をしてしまう漫画は沢山あります。

 打ち切り終了とは逆のパターンもあります。漫画家は「この辺で完結させよう。」と思っていたけど、人気がありすぎて編集者から「続けてくれ」と連載継続を頼まれることもあります。

 連載継続となると問題になってくるのは「設定の後付け」というものがあります。漫画家が考えていたストーリーの設定では連載継続は難しく、いつ完結あるいは打ち切りになるかわからない状況になり、苦肉の策で元々考えていた設定に新しく設定を付け加えるという方法をとらざるを得ない状況になるのが人気漫画のセオリーみたいなものです。

 漫画業界においても最もシビアな業界である集英社の週刊少年ジャンプの漫画では特に、この「設定の後付け」が著しいのですが、ストーリーの進め方の上手い漫画家はうまく後付けを隠してストーリーを展開させています。その例を二つ挙げると一つは「北斗の拳」。北斗の拳は北斗神拳を使うケンシロウがそれと対を成す南斗聖拳の使い手であるシンを倒して恋人であるユリアが自ら命を絶っていたというあたりで完結するはずだったそうですが、人気ゆえにそれからも連載継続することになり、ケンシロウに兄弟がいたり、南斗聖拳の使い手が複数いたり、そして死んでいたはずの恋人のユリアが実は生きていたという、よーく読んでみると後付けっぽいストーリーの展開があるのがわかります。

 もう一つはジャンプ至上、いや、すべての漫画業界においても大人気の漫画「ONE PIECE」でしょう。どうやらこの漫画は単行本10巻くらいで完結する予定だったそうですが、人気がありすぎて現在はなんと単行本100巻以上もストーリーが続いているという快挙を成し遂げている漫画です。元々、この漫画は作者が伏線を沢山用意しているので、ある程度設定を後付けしても見事につじつまを合わせているのが人気が続いている理由でしょう。

 でも、僕があえてこの2作品とは別に「これはこれで見事だ」と思う漫画が北斗の拳と同時期くらいにジャンプで連載されていた漫画「魁‼男塾(さきがけ!!おとこじゅく)」なんですね。なにが見事かって言うと「これ本当に編集者がOK出したのかな?」って思うくらいストーリーの進め方がめっちゃくちゃなんです。

 その代表的な例として、主人公の「剣 桃太郎(つるぎ・ももたろう。通称:桃)」の先輩にあたる「大豪院 邪鬼(だいごういん・じゃき)」というキャラクター。

 まずこの邪鬼の初登場シーンなんですが、明らかに人間じゃないとんでもなく巨大な大きさで登場するんですが、桃が邪鬼と対決するストーリーになると、何故か普通の人間サイズになっているんですよね。この変化に対して作者はどう説明づけたかというと「恐怖心や畏怖によってオーラででかく見えていた」という強引すぎる設定というか、その場しのぎの言い訳のような説明で釈明したんです。

 さらに、この邪鬼はサイズだけでなく生きているのか死んでいるのかストーリーが進むにつれてハッキリしないんですよね。

 僕が知っている限りだと、邪鬼は敵との戦いで死を悟って敵を倒した後に、自分の必殺技を自分に食らわせて骨も残らず消滅したんですが、ジャンプと同じ集英社のプレイボーイに連載された同じ作者が描いた「天(そら)より高く」という漫画で、男塾の登場人物のその後の姿が描かれているんですが、その中になぜか消滅したはずの邪鬼が普通に登場するんです。でも、その後にスーパージャンプで連載された男塾の続編漫画「暁‼男塾(あかつき!!おとこじゅく)」では、邪鬼の息子が登場した際に死んでいるという設定に戻ってたんです。更に進んで日本文芸社の漫画ゴラクに連載された「私立極道高校(しりつきわめみちこうこう)2011」では何の説明もなく生きているだけでなく、初登場と同じ怪獣サイズの巨人で登場したんですね。


 僕は漫画家という夢を捨てて(とはいうもののイラストは描いている)普通の仕事を選び、漫画は殆ど読まなくなったんですが、この男塾シリーズとこの作者の作品は普通に好きです。理由は一つ。自由すぎるから。

2025年10月1日水曜日

下品な表現の必要性


 僕が短大生のころ、ネット上である政治家が漫画やアニメの表現を規制、あるいはそれら自体をすべて規制するという発案にネット上で批判が相次いだ出来事がある。ネット上に出ているこういった政治がらみの情報は大抵の場合フェイクである可能性がある。この出来事から10年くらい経つが、そういった規制が行われている様子はないのでフェイクだった可能性が高い。


 そもそもの話、この出来事以前から、アニメや漫画といったメディアを規制したがる人は昔から存在していたのも事実。

 その代表的な一例として挙げられるのが、僕が子供の頃大好きだったアニメ「クレヨンしんちゃん」だろう。このアニメは放送が開始してからそのあまりにもお下劣な内容が原因でPTAや保護者からクレームが殺到し、ある番組が調査していた「子供に見せたくないアニメランキング」の上位にいつもランクインしていた。

 ご存じかもしれないが、元々クレヨンしんちゃんのアニメの原作となった漫画は子供ではなく、大人向けに連載されていた漫画であり、これを子供がTVを見る時間帯にある程度改変はしたものの、原作をそのまんまアニメで放送できるような内容ではないのである。

 こうしたアニメや漫画の表現を規制したがる人がそうしたい理由にあるのは、おそらく大半が「そういう表現を見てそれに影響されて非行や犯罪に結びつく恐れがある」という危機感だろう。その危機感のきっかけと言える事件が殺人犯の宮崎元死刑囚がアニメ好きだというニュースが報じられたことだろう。


 僕が思うに、表現規制をしたがる人の言うようにそれが原因で犯罪が起こるというのは残念ながら事実である、けども僕は場合によってはそういう表現が必要となる場合もあるという事もあると思うんです。


 僕が下品な表現も必要だと思った理由は二つあります。

 一つ目は、俳優の栗原類さんのアメリカでの小学生時代のエピソードから。ある記事のインタビューで栗原さんはアメリカに滞在していた頃、自身の発達障害の特性で冗談が通用しないために同級生と何度かトラブルになっていたと話しています。それで当時の栗原さんの担任の先生が危惧して栗原さんのお母さんと一緒に相談したところ、その担任の先生は、「もっとお下品なお笑い番組を見てください。」と助言したそうです。そして友人のすすめで「サウスパーク」というアメリカでは結構有名な割と過激なジョーク満載のコメディアニメを見るようになったそうです。それがきっかけで、栗原さんはコメディ俳優を目指すようになり、今の俳優業に至っているそうです。


 二つ目は、僕の実体験です。今年の夏の初め頃、僕は理由は分かりませんが精神的に弱っていて仕事も欠勤するほど弱っていました。しかし、前から気になっていたアメリカ製の大人向けアニメ「ヘルヴァボス」というアニメがYouTubeで公式に公開されているので、興味本位で鑑賞してみたところ、嘘みたいに弱っていた精神状態が回復し、このアニメを見た翌日には元気に職場復帰できるほどになりました。「ヘルヴァボス」というアニメはアマゾンプライムで配信しているアニメ「ハズビンホテルへようこそ」のいわば外伝的なアニメで、ハズビンホテルもヘルヴァボスもグロテスクな表現とアダルトな表現満載のインモラルなアニメなんですが、中にあるミュージカルのクオリティが非常に高いんですね。日本でもこの2作品は熱烈なファンがいるほど人気な作品です。余談ですが、以前鈴木雅之さんのコンサートに行った記事で「アニメのカップリングで尊いと感じた」と書きましたが、これはそのヘルヴァボスの主人公ブリッツとその恋人(?)のストラスの恋人関係のことを言っていたんですね。


 僕は、こういったお下品な表現のあるアニメや漫画は別にあってもいいとは思うんですが。規制したがる方もそれを少しでも理解してくれるために重要なことがあるとするなら、「こういう表現を見てもいいが、現実での道徳や倫理観だけは捨ててはならない」ということです。僕も一時期現実と空想の区別ができない時期がありましたが、何度か訓練するうちにそれができるようになりました。アニメや漫画は現実ではなく作り話、現実は道徳と倫理観を持って生きる。そうすれば、こういう表現で間違ったことをする人は少なくなる、と思います。

2025年9月22日月曜日

僕の描く絵について考えてみたこと

 


前の記事でルーティーンについて書きましたが、今回はその中で紹介した僕の描く絵についてもうちょっと掘り下げて考えてみようかなと思います。

 前の記事をおさらいすると、僕はどっちかっていうとルーティーンを好む傾向ゆえに、描くイラストがほとんど似たような構図になりがちになっているということ。


 確かに、今までの作品を振り返ってみると、マンネリしているのは描いた本人である僕でもわかるくらいだと十分承知しています。


 でも、Pixivを始めたばかりの頃、さらに遡ってPixivより前に自分のホームページにイラストを掲載していた頃、それから今を比較してみると、だいぶ変化はしていると思うんですよね。


 本格的に創作活動をはじめて10年以上が経過していると思いますが、あの頃と今では創作活動をする意味がどこかでガラッと変わったような気がするんです。


 最初は他の創作者さんと交流することが主な目的だったんですが、次第にネット上での人間関係に曇りがさすようになり、現在はそういった交流ややり取りは殆どなくなりました。


 そもそもの話、去年、更に一昨年と比べてもだいぶ絵のスタイルは変化してます。

最初のうちは普通の人間を描いていたんですが、今はモンスターやクリーチャーを主に描くようになりました。

 「似たような絵を描く」と思われるのは多分、絵を描いて次の作品を描く間隔が比較的短いのが原因だと思われます。僕が思うに自分はあんまり考えずに思うがまま描くクセがついちゃってるみたいです。もうちょっと考える時間を持てば、バラエティに富んだ絵がかけるかもしれません。

2025年9月5日金曜日

ルーティーンについて思うこと

 

ルーティーンを好む人は積み重ねることで結果が出ることを信じて努力する人で、

ルーティーンを嫌う人は人生や社会を多様に、そして豊かにするために考え、努力する人である。 

 

 以前の記事でイチロー選手について考察しましたが、今回はその中で紹介したルーティーンというものについて、もうちょっと深く考えてみようと思います。

 

 まず、イチロー選手はとにかくルーティーンにこだわる人であることは割と有名な話で、

毎日カレーを食べる等があります。

 

 このルーティーンというこだわりや習慣は、発達障害とよく関連しているらしく発達障害を持つ人の大半は何かしらのルーティーンを好む傾向にあるそうです。

 僕も自閉症スペクトラム障害、あるいはアスペルガー症候群という発達障害を持っているためか、割とルーティーンにこだわるようで、例えば仕事前には必ずコーヒーを飲むようにしてます。

 また、このルーティーンを好む性格が原因か、趣味のイラストを描く時でも、若干の違いはあるものの、一見してほとんど似たような構図になってしまいがちなようで、何度か閲覧した方からのコメントで「似たような絵ばかり」というコメントをいただいたことがります。 

 でも、今の仕事においてこのルーティーンを好む性格はかなり強みになっていると思うんですよね。

 今の仕事は特に例外がない限り毎日ほとんど同じことの繰り返しですが、 これをルーティーンという習慣にしているため、これといって辛いと思うことはあまりありません。むしろ、仕事している間は仕事に集中できるため、余計な考えが出なくて精神的に落ち着くんですよね。

 

 当然ながら、僕みたいにルーティーンを好む人もいれば、ルーティーンを嫌がる人もいます。でも、そっちのほうが普通なのは理解しています。

 でも、ルーティーンを好む人も、そうでない人も、努力はその人なりにしている人だと思うんですよね。ルーティーンを好む人は積み重ねて結果を出す人で、そうでない人はバラエティに富んだ考え方 で世の中や自分の人生を鮮やかにすることをいつも考えていることをちゃんと努力していると思うんですよね。

 

 ルーティーンというのは、人によってその存在意義が変わるものなんでしょうね。

 

  一万種類の蹴りを一回ずつ練習した者は怖くない。

  私が怖いのは、 一種類の蹴りを一万回練習した者だ。

   _ブルース・リー

2025年8月31日日曜日

もしかしたら、女神様に出会っていた話

 

幸運の女神、lady luckなんでものがありますが、本当にそんな存在なんているんでしょうか?

僕は、いると信じています。というか、知らぬうちに出会っていた可能性があったと思っています。

 

 そう、それは僕が今の職場で働くことになった最初の頃。

僕に任された仕事は事務所や工場内の清掃や、トレーの洗浄といった雑用みたいな仕事。

その時、僕にその仕事のやり方を教えてくれたのが、多分だけど僕よりも明らかに年上の女の人だった。歳上なんだけど、老婆というほど年齢は高くはなかったはず。

  彼女はとにかく喋り方も教え方もとてもやさしく、僕は彼女のお陰ですぐに仕事をこなすことができたんです。

 少しばかり、僕は彼女が愛おしく感じることもありました。

 しかし、時が経ち、彼女は年齢の理由もあってか退職することになったんです。

そのとき、 ぼくは、何だかさみしい気持ちになったんです。でも、その時こんなことを思いついたんです。

 「自分を親切にしてくれる人を大切にするんだ。でもどんなに大切にしてもいつかは別れなきゃいけない時が来る。その時は、『さよなら』じゃなくて『ありがとう』って言える別れ方にしよう。」 

彼女が退職して今はしばらく時間が立ちましたが、僕はあの時よりも少し仕事がうまくできるようになったような気がするんですよね。

 僕はこう思っています、あの人こそが僕にとっての女神様だったんだって。

女神様は神々しくてすぐに分かるような外見をしていません。より身近で最初のうちは気づかないものだけど、時間が立つにつれて何かのきっかけで女神様だとわかる時が来る。僕はそうだと信じています。